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ユルギュップ

urgup1.jpg (24948 bytes) ネヴシェヒールから20km東に位置するユルギュップはカッパドキア地方の最も重要な中心地である。ギョレメのように、歴史的な過程の中で多数の見どころがある地区でもある。ビザンチン時代には、アシアナ、ハギオスプ口コピオス、セリジュク時代にはバシヒサール、オスマン時代にはブルグット城、トルコ共和国初期頃には、ユルギュップと名付けられた.ユルギユップとその周辺の初期居住地は古代名を“トミッソス”というダムサテャユの東アヴラ山の麓にあった。さらに後期に属する重要な遣産としては、ユルギュップの町や村で見られる口ーマ時代の岩窟墓がある。ビザンテン時代で重要な宗教中心地となったユルギュップは村、町、峡谷の岩窟教会と修道院の中心地でもあった。

11世紀にユルギュップは、セルジュクトルコ人の重要な都市コンヤとニーデへ開ける重要な城の位置にあった。この時期に属する2つの都市の中心であるのは、アルトウ力プルとテメン二テペシ陵墓である。13世紀に作られた、母親と2人の娘のものである“アルトウカプル陵墓”は、6面でアーチ形窓が全面にあり、上部が開いている。ユルギュプのテメンニテプシで見つかった2つの陵墓のうちの1つは、1268年ヴェジヒパシャによって作られ、国民の間で“クルチアスラン隆墓”として命名され、セルジュク系スルタン リュクネッティン クルチアスラン4世でもうー方はアラティンクイクバット3世のものになったことが考えられる。しかし行なわれた調査によると、この事実はかなり信摂性が低い。

1515年オスマン朝の領士に入ったユルギュップは18世紀にオスマン朝サドラザム・ダーマット・イフラヒムパシャのイスラム法官の管轄区になったネヴシェヒール(ムシュカラ)に属するためにこの考えが残つている。シェムセッテイン・サーミは1888〜1990年に書かれた大辞書ウル・アラムという名の歴史と地理に関する作品でユルギュップで70のモスクと5つの教会と11軒の図書館があったことを明らかにしている。

聖テオドレ(タール)教会

ユルギュップとカイセリの途中、8.5km後右へ曲りさらに8km先の所へ行くと、ユルギュップ郡のイエシロズ村へ到着する。この教会はT型設計、中央ドームで構成されている(ドームは崩れ落ちガラスで覆われている)。上の階で見られるギャラリーへ階段で昇ることができ、これはカッパドキア教会の中で唯ーの例である。壁画は保存状態が良く、3人の職人達によって、それぞれのスタイルで異なる時期に描かれたと思われる。聖テオドレという名で作られたタール教会は11〜13世紀のものである。

場面:洗礼者イエスキリスト、受胎告知、誕生、預言者達、聖徒達、十字架のイエス、天使ミカエルとガブリエル、マダリオンの中の聖徒像。

パンジャルルック教会

パンジャルルック教会は、オルタヒサールの町の南にありユルギュップとムスタファパシャを結ぶ道の右側のパンジャルルックの谷の所に位置している。平天井の単拝廊単アプス形である。教会の壁画の下地の色はかなり緑がかっており、良い保存状態である。初めは教会を2人の異なる職人が異なる時期に描いていたと考えられていたが、場面と文字を個々に調査したところ1人の職人が描いたものということが判明した。豊富な聖書描写を含み、メダルの中には聖徒像のみが限定されている。この教会は11世紀初期のものである。

 
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